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1.31.2012

QC3|07 宗田好史「「保存再生」から見える地域、人々の動き」





「「保存再生」から見える地域、人々の動き」
宗田好史インタビュー




今回お話をうかがった京都府立大学准教授宗田好史さんは、都市計画の観点から歴史的環境の保存再生に関して研究され、その成果を出版や講演といった様々な形で社会へと還元されている。京町家や歴史的都市を無批判的に「文化」としその保存再生を即座に是とする議論ではなく、その「保存再生」がいかなる社会的背景において実現し、またどのように都市へと影響を与えるのかをより広い視点から究明されている。今回のインタビューは、「保存再生」というテーマから見えてくる都市や社会の「症状」から、宗田さんの考える可能的「治療法」までうかがった。こうした、現在的な議論の中で見過ごされがちな都市や社会の諸側面への着目は、そのなかに様々な形で現れる「地域」なるものを考える契機となるかもしれない。社会的変化のあり方を、とりわけ人々の動きへと焦点を当てながら語っていただいた。(2011年6月、宗田さんの研究室にて)



後編はこちら
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前編「都市計画学、工学、社会学の間から」



―宗田先生は京町家についてご研究をされていますが、その内容についてお話いただけますか?


まず、町家といっても都市計画の分野での研究です。京都が町家を再生するには、建築だけでなく、都市計画の問題として何をすべきかを考える研究です。だから、どこに何軒の町家が残っていて、あるいは失われ、それはなぜかを知るために都市計画調査をしました。あわせて、社会学者の方法を真似て町家の住民の調査もしました。それまで、町家は何軒残っているか、その住民はどのように暮らし、働いているのか、また何を考えているのか、分からないままで町家の残し方が分らなかったのです。

京町家の本についても書きました(『町家再生の論理』)が、研究としてはまだ表層的なものです。町家再生プランをつくるための予備調査でしたが、まちを歩いて町家の数やお店の数を数えて、それを地図にしただけ。多少文献はあたりましたが、まだ薄いものです。住民についてもアンケート調査で6000件くらいの意見をもらい、その中の250件に訪問調査をしました。それまで誰もやっていなかったから好意的にとらえてくれる人もいますが、それでもしょせん250件、しょせん4年間くらいでしかありません。それでは研究とは呼べませんよ。なぜそんなことを言うかというと、フィレンツェとかベネチアとかローマの研究の蓄積に比べて、まだまだ脆弱な研究だと思っています。そして、町家だけで京都の都市計画は語れないと思っています。


—では具体的にどのような視点が必要だとお考えでしょうか?


例えば、今、京都の歴史を語る時に抜けているのが天皇に関わる点です。最近、アメリカ人研究者が『紀元二千六百年 消費と観光のナショナリズム』(ケネス・ルオフ)という興味深い本を出しました。いわゆる近代天皇制、つまり明治国家が創造した神話的古代に関する領域。そして国家神道という領域。これらが国家的祝祭として総合的に盛り上げた紀元二千六百年祭(昭和15年)の京都、こうした領域の研究が抜けていました。この年、京都でも政策的に様々な演出が行われ、観光客も戦前のピークを迎えました。実は、戦後しばらくはその惰性で来ていたと思います。その次のピークは東京オリンピック、新幹線開業、そして万博。これらは記憶されています。しかし、たかだか60年70年前、20世紀前半の状況はあまり語られません。それに比べると、僕が留学していた80年代の前半のイタリアでは、二つの大戦間の社会と建築の見直しが始まった頃で、これらに対する徹底的な研究が盛んでした。イタリアの専門家はファシズムを乗り越えないと地方分権や中央集権の議論ができないと考えていました。国家というもののあり方、そして民族というもののあり方。それからイタリアの文化政策に関しても、まず反省でした。そもそもこれらを始めたのはファシズム政権。ファシズムの文化政策はイタリア人のトラウマになっているから、それをどうするのかを議論していた。その反省を戦後世代に伝えないまま、京都では「文化」を語ります。




左:宗田好史『町家再生の論理―創造的まちづくりへの方途』 (学芸出版社、2009)
右:ケネス・ルオフ『紀元二千六百年 消費と観光のナショナリズム』(朝日新聞出版 、2010)


例えば平安神宮は平安遷都1300年祭の内国博覧会場として建てられ、「時代祭り」が始まった。そして起源がたいへんに古い「葵祭」にも、昭和31年に始まった斎王代と女人列がある。宮中の祭りをポピュラーな形にしたのでしょう。それから中世の町衆のものといわれる「祇園祭」。これを「京都三大祭り」と言っている。でもそれぞれの文化的背景の違いにはあまり注意が払われません。この三つを一緒くたに京都の伝統文化だと思っている。京都の歴史の積層性を描かないまま、世界遺産である金閣寺や仁和寺、天竜寺などが世界文化遺産に登録され、今も追加登録を待つ数々の社寺があり、一方で世界無形文化遺産に登録された祇園祭や京料理があり、その中で町家の保存を語っている。一方、御所や桂離宮、修学院離宮、陵墓など皇室財産もある。これらをどう取り扱うか? あるいは世界遺産について言えば京都市が所有する二条城をどう見るか? 歴史都市の壮大な文化を背景に町家再生を市民運動として始めてきたのです。


―町家再生問題や景観問題には京都の地域が持つ難点が現れて来ているようにも感じられるのですが…


そんな大げさなものじゃないと思います。僕はしょせん工学屋だから、例えば水道なるものが発明されたら「水道を敷きましょう」、電気なるものが発明されたら「電気を引きましょう」、同じように「下水掘りましょう」、「道路舗装しましょう」などなど、それと同じように、今何をつくるかというと景観、今何やるかというと町家保存というだけだと思います。時代とともに新しい都市機能が必要になってきたように、都市をつくっていこうと思えば、その時代あるいは社会の変化、要請に応じた仕事があるわけです。今はニュータウンをやっても仕方がない。高速道路もそう。都市計画がそういうことを研究しても仕方ない時代だと思います。僕らは景観法ができる遥か以前から町家再生と言ってきましたが、ようやく僕らの出番が来たなと思って仕事しているだけです。ヨーロッパに比べ40年、アメリカに比べて30年くらい遅れたけれど、美しい歴史都市をどう創造するか、ということを都市計画から考えています。

ただ、そうした工学的なところとは別に、京都の文化や都市社会の成熟という課題を考えています。僕らは、京都の現代社会、文化のあり様を見ていて、あまり矛盾しない都市づくりを進めようとします。それが民主主義では大きな原則ですし、都市計画の社会的役割です。だから町家再生の話をとっても、町家再生をうまくやれば世の中の人は京都の市民社会の文化活動だと認めてくれるわけです。多くのアーティストも共感し、喜んできてくれる。「創造的まちづくりの方途」という副題がついた『町家再生の論理』は、我々工学屋としてどう進めていけばいいかということを書いています。その都市を創造的まちづくりという大きな流れに乗っけるためにはこういう方途があるわけだから、ただ厳しく景観規制するような下手なやり方をするべきではない、と。もうちょっと賢くリーズナブルに、今の時代にあった創造的まちづくりがありますよ、と。ただそこは文化論が分かってないと、いま誰が主人公で誰を動かしたら時代の流れに乗れるかということを分かっていないとできません。その部分を理解するためには、京都は研究の蓄積がまだ薄いと思います。そういう議論がちゃんと起こってない。京都の近代にあえて蓋をしたように見えます。



―「地域」なるものはその中でどうやって位置づけられて来たのですか?


「地域」というと日本では曖昧な言葉ですね。リージョナル・ディベロップメント(地域開発)を意識するなら、TVAや南イタリア開発、現在ではEUのアーバン/リージョンという政策につながってくる、いわゆる「分裂と統合のヨーロッパ」と呼ばれるようなところを考えないといけない。一方で、地域社会、コミュニティという意味でその言葉を使うなら、コミュニティ計画の系譜をルイス・マンフォードやその前のマックス・ウェーバーが都市社会を説明していて、近代化の過程でゲマインシャフトとゲゼルシャフトを分けて捉えることもありました。都市計画では、フーリエやサン・シモン、ロバート・オーウェンは新しいコミュニティを提起し、現在のニュータウンづくりには、クラレンス・ペリーの近隣住区論、スクール・ネイバーフッドの理論が参考にされました。それに、広域を指す「リージョン」と「コミュニティ」でいう地域を繋ぐ概念をパトリック・ゲデスというスコットランドの計画家が提起しています。

そしてニュータウンにおいてコミュニティ計画がどうあるか、イギリスではどうか、日本ではどうか、アメリカがどうだという話になる。戦後60年代70年代の社会改革の時代、パリ5月革命が起きた時代に市民参加がどうあるか? そこでパリに注目するならパリ・コミューンはなんだったのか? イタリアの住民参加は? という具合につながってくる。日本では、近代化とか戦後の民主化を経たことで伝統的な地域社会は変わったのですが、欧米のような整理が不十分なまま、現代と伝統を取り混ぜつつ、相互扶助が大切だと言っている。京都でも市民参加推進計画があり、その推進フォーラムを6年務めましたが、その議論は、地域の伝統的な学区の自治、連合自治会や社会福祉協議会というものを単位にした、ゲマインシャフトを大切にしつつ、90年代後半に盛んになったボランティアとか、NPOに少しずつシフトする流れをどう位置付けるかということでした。もちろん会社組織などゲゼルシャフトに属している人も多い訳で、地域でも会社でもなく、第三の道としても市民活動を捉え力にしようと考えていました。

学区のまちづくりが盛んなところでは「町内会に皆さん入りましょう」という流れが出てきます。地域恊働型都市計画といって、地域のなかにまちづくり協議会をつくって景観規制を考えてもらおうともしました。東京や横浜でなされているようにNPOがまちづくりを担うというやり方もあるでしょう。市民専門家を育成する市民景観マネージャーのような動きもある。その一連の流れの中でタウン・アーキテクトをつくるという話も出ました。だけど、いまそのどちらにもシフトできないから、そのどれにも属せない市民が右往左往している。そんな状況で、新しい組織形態ができても結合紐帯がうまくできていないから「地域」なるものの定義はますます曖昧になっている。そういう説明ができるかな。


―京都における「地域」の変遷はどのようにあったのでしょう?


京都で言うと『町内会の研究』(御茶の水書房、1989)という本があります。戦前に「公道組合」というものがあって、国家総動員法のときに大政翼賛会という全国的な組織をつくり、その下に町内会や隣組を全部組織化してしまった。そうやって末端に組み込まれるから、戦後GHQが「町内会禁止令」を出したのです。京都ではその対応で「市政協力員」という制度がいまでも残っている。この本で言っているのは、町内会が行政の末端機構となって戦争中は供出と配給を担っていたのだ、ということですね。供出というのは軍事産業に使うための物資を出せということ、あるいは国債を買え。国債を買えということはつまり、お金出せ、ということ。その推進を町内会に任せた。要はノルマを出したわけです。モノとカネ。一方で配給は米や衣料切符とかを配給する。それを町内会に担わせる。すると町内会長は絶大な権力を持つわけです。案の定、汚職も、もちろん極稀ですがありました。


―そのときの町内会の規模は?


今とまったく同じです。とりわけ都心部の旧町内は地理的には変わっていません。しかし、今と当時では人口も世帯数も随分違います。また、戦後に新しくできた住宅地は違います。当時田んぼだったわけだから(笑)。20世紀の前半には前世紀の伝統も色濃く残っていたのでしょう。……ところで、町家の間口が狭いのはなぜか知っていますか?


―税金の問題が、という話を聞きますが...


という話を聞きますね。でもあれは間違いです。まず税金というものがいつスタートしたか。近代です。税を取るのは近代国家の根幹だからその仕組みを明治に作ったのです。江戸幕府は小さな政府を志向していたから全部町民に任せました。だから京都所司代(しょしだい)には与力30 - 50人、同心も100人しかいない。でも担当は近畿地方全域、京都市内向けには町奉行を置きました。でも与力は20人、同心50人ほどだそうです。それもできれば町民のガードマンにまかせる、つまり「自分たちでやれ」ということですね。それでどうするかというと「町年寄(まちどしより)」という町人の代表に任せる。上京、下京というように分けて、その上何人かに任せて連帯性にする。町年寄はその下の「町名主(まちなぬし)」へ任せる。町名主は町内に「家持(かもつ)さん」を抱えている。これは要するに財産を持っている人です。財産を持ってない人からは金はとれませんからね。そして町名主の支配下にある家持が15人とかいると、その人らが集まるのが「寄合(よりあい)」。町年寄は町名主に命令する。所司代が例えば「今度橋をつくります」というと、その話を町名主に伝え、負担金を集めてもらう。どのくらい出すかはそれぞれで決めればいい。そうやってノルマを決めていくわけです。じゃあどう決めるかというと、間口の大小で額を決めた町内があったのでしょう。今風に言えば、資産価値、つまり固定資産税の算定基準に応じて決めればいいのだけれど、基礎となる測量図があるわけでもない。あとは使用人の数や売り上げで決めたところもあるでしょう。でもとりあえず負担金を簡単に決めることができたのが間口によってでした。それが一番よく使われた。当時の具体的な記録がきっちり残っているわけではないけど、人々の記憶にそういう形で残ってしまった。「大きな店を構えると負担金が大きい」というのは家主の教訓だった。でもいまではそういう秩序も失われてしまいました。



町家改修店舗が並ぶ通りの一例


ただ、面白いのは、まだ間口割で町内会費を集めているところがあって、伝統を残している町内が僕の知っている限りでも3つはあります。新しい住宅地だったら、誰からでもまんべんなく一世帯いくらと決めてしまうでしょうね。「そのほうが民主的だ」と思う人もいるでしょうが、平等イコール民主主義ではないという意見もあります。所有資産が違うのだから、同じ金額では負担感が違うでしょう。だから間口に応じた方法が合理的だという意見もあるでしょう。こんな複雑な仕組みを独自に考えられるのが自律的だということかもしれません。昔、地域では「家持さん」、つまり財産を持っている人が少数、しかし持たない無産階級が膨大にいたのです。有産階級が応分の責任を果たしていたのでしょう。

近代のヨーロッパの歴史は、まず有産市民階級(ブルジョアジー)が革命を起こし、一定の平等社会を実現した国がある。しかし、そう進まない国では、無産階級(プロレタリアート)が共産革命を起こしました。でも日本では市民革命も、無産階級の革命も起こりませんでした。だから、一部に伝統社会を残しながら、民主主義が始まり、未だに市民社会のあり方が脆弱で曖昧な部分を残しています。誰もとことん議論したことがないから、どこまでが到達点なのか分からないでいます。

「町家は町衆文化」の表象だという人がいます。でも町家の住民が即、町衆と言う訳ではないかもしれません、実際、町家に暮らしていたのは、戦後になっても丁稚奉公の名残が残る従業員でもあります。彼らは「あんなむさくるしいところで、あんな封建的な支配をうけて働かないといけないなんて絶対に嫌だ」「あんな町家は早くこわして、近代的なビルを建てて、普通の社員になりたい」という声がありました。町家の奉公先で苦労したために、町家嫌いになった人は相当数います。だから町家が壊される時代が70年代までつづいていたし、80年代になっても、町家の再生が進まなかったという側面もあるのです。


―では宗田先生は町家問題へとどのような姿勢をとられていますか?


保存が大前提です。しかし保存するためには市民のコンセンサスが要るから、市民が望まなければ町家の保存も再生も意味がありません。でも大部分の市民は「自分には関係ない」と思っています。とはいえ、この大部分の市民がコンセンサスの主体です。だから「町家は楽しいよ」と水を向けてみる。楽しいと分かれば、いろいろ遊んでくれる人が出ますから、その動きが阻害されないように陰で応援します。一方で、町家の住民には、いろいろな思いがあるでしょうが、この町家は贅沢ですよと伝えます。

我々保存屋、歴史的な都市環境の保存をする者は、住民、市民に働きかけるところからはじめます。働きかけて、実際動いてくれたら市民の皆さんの運動になります。そのためには、相手を知らなければなりません。だからまずは診察。お医者さんのように、患者さんの状態を克明に調べて、その後でいろいろ考えて診断します。こういう症状が出ているということは、つまりどういう病気なのか? それを決めていくわけですね。症状の原因である病気が分れば治療計画がつくれます。このとき患者さんが自分自身で治っていく力をもっています。これを治癒力という。治癒を早くするのが治療です。治癒力を引き出すような治療がいいわけです。つまり、町が発展する力は、市民自身が幸せになろうとする力です。一人一人がよりよい暮らしを求め、そのためには皆で力をあわせようという流れをつくるのです。町家の保存再生にはいろんな問題があるけれど、根本の意識改革をすればよりよい京都らしい暮らしができますよと、町家再生を進める住民・市民の力を引き出そうと思うのです。

実際に調査をしてみると、町家はみんなが言うように職住共存です。前で商売して奥で暮らす。職住共存がどんどん減って住宅化しています。都心の田の字地区だけで調べて、商売しているのは48%。その商売は、1、小売店、2、繊維問屋、3、和装関係の職人さん。どれも衰退業種です。商業統計見るまでもなく日本中から小売店鋪は減っている。流通革命が起こって、大型スーパーやコンビニが増え、商店街がシャッターを降ろす。和装は減少し、それで伝統産業の職人の仕事も減っている。じゃあこれからどうなるか? 嘆いていても仕方がありませんよ。この流れは簡単に止まらない。商売をたたんだ町家は住宅化しますが、町家の住宅は残るのか? 実は住宅は残りにくい。例えば相続で資産を兄弟で分けようとすれば、簡単なのは家を売って現金で分割することです。世代が変わると、同じ街の同じ家で住む人はたいへん少なくなっている。親が住んだ家に子の世代が住むのはたしか20%を切りました。子が住む場合でも建て替えます。そういう意味で住宅は脆いのです。住民は常に変わるのです。町家が住宅として残るには、むしろ子供ではなく、町家がいいという新しい持ち主が必要なのです。売買で持ち主は代わるが、町家はそのまま残る…… そう考えると店舗は売買され、経営者が代わりやすい、テナント物件だったら経営者はもっと代わりやすい。町家がいいという人が次々と入ればいいのです。

常識的には、町家を文化財に指定して保存する方法を考えます。でも、個人所有の、それも小さな建物を文化財として個人が維持管理するのは厄介だと思われています。手続きも厄介ですが、土地建物という資産を売りたい場合もあるし、相続は必ず起こります。よほど資産に余裕がある人でなければ文化財を敬遠します。景観重要建造物など、他にもいろんな手があります。でも、制度を考える前に、普通の町家所有者の現実の問題、つまり不動産としての町家が市場の中で残っていくようにしないと保存はできないのです。

町家再生を考える人は、この点をあまり詳しく見ません。町家の改修を発注した施主、店の経営者が青色申告をどうしているかなんてあまり考えません。一般に、建築家は事業者が将来どう経営しているか、これから10年間どうなっていくかが分からない。経済状態も変わるからです。ただ、年収も問わない。にもかかわらず1億、2億の工事を簡単に提案する。銀行であれば1億融資するとなると、こっちの帳簿をずっと見てきて、それをいろんな経済データに合わせて商売の見通しをつくってくれます。町家も同じで、そこまでシミュレーションしてあげないといけません。そのとき町の元気さを見ていくことから始めます。例えばどういう業種なら町家を好んで使ってくれるか? レストランもその一つ。考えてもみれば、町家レストランといっても美味しさで名を上げた所は本当に少ないでしょう。そこではたと気づく、ああこれは付加価値なんだ、と。この程度の料理でも店が続いているってのは雰囲気がいいから、それが町家の価値だとわかります。大げさに言うと、これが町家の文化的価値、彼らはそれを上手に使っているのです。建築の社会的意義をよく理解していることだともいえます。



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プロフィール

宗田 好史
むねたよしふみ
1956年浜松市生。法政大学工学部建築学科卒業、同大学院を経て、イタリア、ピサ大学・ローマ大学大学院にて都市・地域計画学専攻、歴史的都市保存計画、景観計画の研究。歴史都市再生政策の研究で、工学博士(京都大学)。国際連合職員を経て、1993年より京都府立大学准教授。国際記念物遺産会議理事、京都市景観審査会委員、京都市歴史風致まちづくり推進協議会委員、他。東京文化財研究所客員研究員、国立民族学博物館共同研究員などを歴任。主な著書に、『地域共生のまちづくり』(共著、学芸出版社、1998年)、『まちづくりの科学』(共著、鹿島出版会、1999年9月)、『中心市街地の創造力-暮らしの変化をとらえた再生への道』(学芸出版社、2007年)、『町家再生の論理-創造的まちづくりへの方途』(学芸出版社、2009年)、など多数。